鵠沼郷の記憶。
平安末期、鎌倉景政により拓かれたこの地を指して、
『鵠沼郷』と記したのは伊勢神宮の記録『天養記』、
「鵠沼村」が誕生した江戸時代、有数の別荘地へと変貌した明治時代、
そして、文化人が踊った大正時代、
数々の時代を経て今の鵠沼の姿が此処に在る。
「鵠」−白鳥が飛来する沼という、
数百年前の情景に想いを馳せながら、目前の風景と重ねて合わせてみる。
幾重にも織り成したその悠景こそ、鵠沼郷の記憶。

薫り立つ緑蔭の景。紡ぎ続けた邸宅地の系譜。

ひと度、その街区に足を踏み入れただけで感じる空気の違い。どの角を折れても、どの路地を歩いても、微塵の綻びもなく貫かれたアイデンティティー。各邸に共通した暗黙の主張がある。真の邸宅街と呼ばれる場所には、必然の系譜がある。受け継がれてきた土地の薫りがある。黒松と石垣、家並、人々−華族の別荘地を端緒とする鵠沼の邸宅史を紐解く。
鵠沼周辺

日本初の大型分譲別荘地の一つ。

江戸の末期まで農漁村でしかなかった鵠沼地区が、明治時代になると首都圏有数の別荘地へと変貌しました。その背景には2つの要因があります。一つは、当時の不治の病といわれた肺結核の流行です。唯一の対処療法として転地による保養・療養が説かれる中、都心にも程近く、自然環境が豊かな地として注目されたのが鵠沼でした。二つ目は、交通インフラの発達です。1887年の東海道線「藤沢」駅の開業を受けて「鵠沼海岸別荘地構想」がスタート。そして1902年の江ノ島電鉄の開業により、鵠沼一帯の別荘地化が急速に進みます。この別荘地化よって、現在の高級住宅地の礎が築かれました。
鵠沼の邸宅街と江ノ電

首都圏有数の高級邸宅街へ。

鵠沼の別荘地が現在の邸宅街へ変わるきっかけとなったのが、1923年に起きた関東大震災。深刻な被害を受けた都内から、政治家や官僚、企業家などが続々と鵠沼へ移住し始めました。さらに、1929年の小田急江ノ島線開通以降、一区画100坪以上で宅地開発が行われ、今の邸宅街の原型となります。これ以後、景勝地として育まれた風土により、首都圏有数の邸宅街へと成熟。鵠沼一帯は、県条例の「鵠沼風致地区」で定められており、厳しい規制によって、旧別荘地の風情が色濃く残されています。また美化・保全に関する住民の意識も非常に高く、住まう人々に愛されながら大切に守られてきた街です。
鵠沼邸宅街の一角

明治大正文化が花開いた地。白樺派と鵠沼風

鵠沼には美しさがある。景観や家並が美しい。それを守り続ける人々が美しい。
美しい風物を守り、さらに新たな美しさを創りだそうとする鵠沼人の審美眼。
それはかつて、鵠沼に集った若き文人達が描写した、この地の素朴さにあった。
素朴こそ美意識の原点。その心こそ、「鵠沼風」。
鵠沼周辺

白樺派の文人墨客の拠点、鵠沼海岸の旅館「東屋」。

1897年に鵠沼海岸にて開業した「旅館東屋」は、当時の若き文人墨客が寓居・逗留して創作活動を行い、数々の作品を世に送り出したことで有名です。「東屋」に逗留した文人には、芥川龍之介をはじめ、明治大正の文壇の主役であった白樺派の面々が名を連ねます。また、鵠沼の住人である画家・岸田劉生は、自宅の窓から望む風景を「窓外夏景」という作品に残しました。「東屋」逗留の文人たちが想い想いに鵠沼の風物を作品に描写して世に送り出したことにより、その作風や内容を「鵠沼風」と評され、当時の流行となりました。「東屋」は関東大震災で倒壊後に立て直されましたが、現在では「東屋」跡地の一画に、「東屋の跡」という石碑が建てられて、当時の名残りを伝えています。
鵠沼の邸宅街と江ノ電
「旅館東屋」に寓居・逗留した主な作家・画家。
1905年、斎藤緑雨が病気療養を兼ねて長期逗留したのを機に、文人達の利用が盛んになります。志賀直哉と武者小路実篤は、文芸雑誌[白樺]発刊に際して何度もこの東屋で相談しました。芥川龍之介は結婚後に鵠沼で生活をしながら執筆活動をしたと言われています。
※掲載の写真は平成19年6月撮影
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